戦前から戦後直後の交通網からみる明太子の流れ

戦前、日本と朝鮮半島は一衣帯水の関係にありました。
朝鮮半島で辛子明太子の看板を掲げた樋口商店が隆盛を極めたのもそのためだと考えられます。


戦前から戦後しばらくの間日本との朝鮮半島との関係はどのようだったのかを見ていきます。

日本と朝鮮半島を結ぶ最初の航路は1905(明治38)年9月11日に初航を開始した下関と釜山を結ぶ連絡船です。


(資料:大阪朝日新聞、明治38年9月6日)

この関釜連絡船が就航する前に京釜鉄道の釜山−京城(現プサン−ソウル)間が全通していたため、連絡船で下関−釜山間226キロが繋がったことにより東京−京城間は60時間で結ばれるようになりました。

この関釜航路の開設から昭和初期までの輸送実績を示します。


(資料:連絡鉄道船100年の航跡、1988(昭和63)年)



また併せて明太子の輸入量に関して見ていきます。

まず1924(大正14)年に発行された朝鮮之明太にある大正12(1923)年の明太卵仕向先別移出港表です。

(資料:朝鮮ノ明太、朝鮮殖産銀行、1924(大正14)年)

次に昭和9年地方別明太卵消費量です。

(資料:朝鮮明太魚、挑戦之水産、1936(昭和11)年)

これらを見ると下関の明太子輸送量も消費量も他の港とは桁が違うことがわかります。
これより朝鮮半島からの明太の輸出量で下関が多くなっているのは釜山と結ばれた関釜連絡船の影響が大きいと考えられます。


一方、現在明太子で知られている博多はどうなのでしょうか。


博多と釜山をつなぐ連絡船は関釜連絡船の輸送量の増加に伴い、その補助航路として1943(昭和18)年に誕生しています。
これは関釜連絡船の客貨輸送力が増加していくにつれ、下関側の陸上施設の船舶収容能力が足りなくなったためです。 そのため昭和18年(1943)に補助航路として博多と釜山間に新連絡航路を開設し、7月15日から徳寿丸、昌慶丸の両姉妹船で運用することで輸送力を補おうとしたのです。
その後、釜山から博多への寄港が行われるようになりましたが、まもなく戦争が激しくなり下関、博多とも航行は難しくなっていきます。


崑崙丸(こんろんまる)は就航僅か半年目の昭和18(1943)年10月5日の夜半、対馬海峡の沖ノ島東北東で、米潜水艦の雷撃を受けて沈没したのである。

昭和20年(1945)にはいり、関門海峡一帯は、米軍機の投下した機雷により“死の海”と化した。4月1日、興安丸が触電して航行不能に陥ったのに続き、後壱岐丸U、新羅丸、金剛丸、下関丸Uが相次いで沈没、あるいは航行不能となった。
その都度、基地を仙崎へ、須佐へと移動したが、輸送体系は混乱し、ついに6月20日以降「関門航路」はその補助航路として、昭和18年(1945)に開かれた博多‐釜山間の「博釜航路」とともに、「鉄道連絡船」としての機能を失い、混乱のうちに事実上の終止符が打たれ、再びよみがえることがなかった。
(引用:鉄道連絡船100年の航跡、1988(昭和63)年)



鉄道連絡船としては「再びよみがえることがなかった」のですが、途絶えていた釜山航路は昭和45年(1970)年6月に下関と釜山を結ぶ関釜フェリーの就航で再開を果たしました。

これらの資料より戦前の朝鮮半島との関係は山口県下関市が深かったと言えます。


 


終戦後、連絡船もなくなり朝鮮半島からの明太子の輸入も当然ながら途絶えます。 このため明太子は北海道産などのたらこを原料として生産をしなければならなくなりました。

しかし戦後で交通網が現在のように機能していない中、原料の調達はどのような状況で行われていたのでしょうか?


北海道から本州へ原料を調達するには海を渡る必要がありますが、北海道と青森を就航していた船も1945(昭和20)年に被災しています。

8隻の青函丸と4隻の翔鳳丸型客載車両渡船が米潜水艦の跳梁で麻痺状態となった沿岸輸送を尻目に本州−北海道間の過酷な戦時輸送を一手に引き受けていたが、終戦1ヶ月前の7月14、15日の両日、米起動部隊艦載機の攻撃を一手に受けて全船被災。辛うじて生き残ったのは第七、第八青函丸(いずれも2850総トン)の2隻のみであった。
(引用:鉄道連絡船100年の航跡、1988(昭和63)年)

また戦前から輸送手段として用いられてきた鉄道も大きな被害を受けました。

軌道は1600キロ、全体の5%、機関車は891両、全体の14%、客車2228両、19%、電車563両、26%、貨車9557両、8%が破壊された.。
(引用:鉄道百年略史、1972(昭和47)年)

疲弊した鉄道と連絡船は戦争からの復旧のために多くの人を運ばねばなりませんでした。これは戦後三大輸送と言われ、それは以下の3つです。
  1. 復員者、引揚者の輸送
  2. 国内、国外問わず様々なところに軍隊や一般市民が残されていたため、これらの人々を復員、引揚げさせそれぞれの故郷まで送り届けることが必要でした
  3. 占領軍輸送
  4. 日本はアメリカ軍を中心とする連合軍に保障占領される立場にありました。このため占領軍の部隊を上陸地から駐屯地までの輸送しなければなりませんでした。
  5. 居住構造の変化による輸送
  6. 疎開地から都市部への輸送、逆に都市部の空襲などの被害から郊外へ移り住もうとする人々が増え、これらに関わる長距離通勤輸送に対応しなければなりませんでした。


これらに加えてさらに一般輸送も受け入れる必要がありました。

しかし連絡船は被災して数が少なく、また鉄道の動力源である石炭が不足しいずれも不安定な運行状態にありました。

これは鉄道の運行状況を表した年表です。
(資料:鉄道運輸年表、1977(昭和52)年を参考に作成)

冬期には石炭が不足し、時刻表通りの発着が出来なかったことがわかります。 特にひどかったのが昭和21年から22年にかけての寒い時期で、急行列車・優等車両を全廃したとなっています。


昭和22年6月1日に発行された時刻表を確認すると、 東京〜下関間は下り、上りともに5本の列車が走行しており、それぞれ内2本は急行です。 下りの急行は所要25時間30分、普通は所要31時間30分かかっていました。
一方東京〜博多間は下り4本、上りは3本が走行しており、それぞれ内1本は急行です。 下りの急行は28時間38分、普通は35時間11分かかっていました。 また、本州から九州へ一本の列車で行ける事は少なく、門司港駅で鹿児島本線への乗り換えが必要になっていたことがわかります。

他方、貨物に関しても戦争の打撃を受けました。
産業が休止状態であったので鉄道貨物の出荷減退や輸送形態の変更などの対応が復興には必要でした。 鉄道では、貨物駅の復旧増強、ヤード改良電化着工、連絡船ではGHQ(連合軍最高司令本部)に船の建造許可を申請し、新造船の緊急蔵備に努め昭和24年(1949)年には復旧が落ち着き次第に復興へ取り組んでいけるようになっていきました。

この復興への第一歩として1947(昭和22)年の6月には国鉄が国の輸送機関から独立して再出発しました。

貨物の車両面では、車両の増加の他にも生活物資の増進のために冷蔵車や通風車、家畜車、石炭車が導入され、復興資材の運搬のため大型の貨車が導入され運搬力の強化が図られました。
また旅客の面でも1947(昭和22)年の9月15日の改正ダイヤから特急列車の運転が復活しました。戦後初めて誕生した特急の名前は「へいわ」で上下列車とも9時間ちょうどで走行しました。


しかし、一方では配給では足りず大変な食糧難が続いていました。
その中で1947(昭和22)年、東京地裁の山口良忠判事が法律を守り、闇米を食べず、配給される食料だけに頼った生活を送り餓死してしまうという事件が起きました。
他にも食糧管理法を守って餓死した者として東京高校ドイツ語教授亀尾英四郎、青森地裁判事保科徳太郎が挙げられます。


この時代は先に述べた戦後三大輸送のようにまず、人、その次に食料を輸送していました。しかし主食としての米も出回らず、餓死者が出る中でいわゆる嗜好品である明太子やその原料を輸送するということは大変困難であったと考えられます。




・参考文献・
山陽鉄道物語
鉄道連絡船100年の航跡
明太子開発史
秘蔵鉄道写真にみる戦後史(上)
鉄道運輸年表
http://homepage2.nifty.com/shokuiku/subkankyou0507.htm