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編集者コメント

大正3年12月12日の関門日日新聞に「明太子」の文字が初めて確認されました。 新聞というメディアの性質上、この時点で既に日本で周知の事実の言葉であったことがわかります。 このことから考えると、他の地域の新聞も含め、この先まだまだ古い日付の発見があるかもしれません。
(資料:関門日日新聞、1914(大正3)年)
明太子の文字が初めて確認された。



編集者コメント

メンタイ(鱈子)との記述があります。 大正3年に「明太子」の記述はありますが、活字は音が確定しません。 大正11年のこの資料は、カタカナで「メンタイ」と書かれているので、「メンタイ」という呼び方が、この時点で存在したことを裏付けています。

(資料:大阪市海産物市場調査、大阪市役所商工課、1924(大正13)年)
メンタイ(鱈子)との記述がある


(資料:関門日日新聞、1924(大正13)年)
江原道(カンウオンド)明太子の価格
右から5行目



(資料:関門日日新聞、1924(大正13)年)
江原道(カンウオンド)明太子の価格
左から5行目





(資料:朝鮮之水産(大正14年4月号)、1925(大正14)年)
左から4行目に明太子の文字
数量は201貫とあり、753.75kg
単価は90円



(資料:朝鮮之水産、1927(昭和2)年)
北海道明太、明太子製品販路の状況 檜山郡水産會のもの




(資料:樋口丈治 (会津若松市)蔵)
樋口商店の「明太子元祖」印刷入り封筒



(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)
明太子広告
右から1行目に明太子の文字
※名越商店に関しての資料があればご連絡お願いいたします。



(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)
明太子の取り扱いでは下関は日本一



(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)
明太子倉庫11月上旬までに建設



(資料:防長之水産、1939(昭和14)年)
明太子倉庫建設計画のため咸鏡漁組が下関市に正式に申込む



(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)
咸南新明太子の下関入荷



(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)
大阪荷受連盟会の明太子取扱い高 昭和13年度中、ざっと5万余樽



(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)
井ノ口商店の明太子広告
※井ノ口商店に関しての資料があればご連絡お願いいたします。


(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)
上から3段目、明太子極上が22円



(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)
健康食品として明太子は誂え向き
9月15日から10月25日まで下関入荷800樽



(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)
豊田商店の明太子広告
※豊田商店に関しての資料があればご連絡お願いいたします。


(資料:関門日日新聞、1939(昭和14)年)
今年の明太子は(咸鏡南)道当局の指導と製造者の自覚で品質向上
咸鏡南道出張所長 平櫛氏語る



 





編集者コメント

自社編集の社史で、昭和24年1月10日にメンタイと名付けて、北海道のたらこを加工せず売ったと記述しているのは、貴重な資料です。 他方、北海道のたらこを加工せず「メンタイ」と売っていたことから、今でいう明太子を作った時期の特定には、客観的な資料が必要となってくきます。




(資料:博多明太子物語ふくやの50年、1997(平成9)年)

この日、初めて「ふくや」の店頭にメンタイが並んだ。従来、この日に「味の明太子」が誕生したというのが通説になっている。ところが今回、五十年史作成のため、たくさんの方にお話を伺ってみると、どうも違うようだ。
俊夫は「味の明太子」を作り上げるまで、長い時間をかけて試行錯誤している。自信を持って世に送り出したのは、もっと後になってからだ。なのに、なぜ一月十日説が一人歩きしてしまったのか。おそらくこの日、「ふくや」に明太子の原料である「たらこ」が初めて商品として持ち込まれたからではないだろうか。(中略)

昭和二十四年一月十日。たらこは加工せず、釜山風に「メンタイ」と名付けられて「ふくや」の店頭い並べられた。この時から「ふくや」の「味の明太子」が着想され、長い商品開発の道を歩み始めるのである。



編集者コメント

高井商店は当時二度倒産をしています。 つまりこの写真は具体的な日時は特定できないものの、1954(昭和29)年から1960(昭和35)年、1961(昭和36)年から1979(昭和55)年のどこかの年度で撮影された写真ということになります。

(資料:明太子開発史、2008(平成20)年)
高井商店の写真



 


(資料:みなと新聞、1955(昭和30)年)
スケソウの子(たらこ)の市況


編集者総評

戦後は皆貧しかった為、日付の特定できる写真などの資料も極めて少ない状態でした。 明太子専門と書かれた写真がある高井商店が二度倒産していることからもわかる様に、必ずしも戦前、戦中、戦後にあった明太子製造業社が現存するとは限りません。当時大きかったが現在では倒産してしまった元明太子製造業の会社もあるのではないかと思います。 歴史考証のひとつとして、日付が特定できる資料を提供していただければまた精査をしていきます。